大型犬フリーク
 物心ついた時には、ドイツ系のシェパードが居た。名前を「パロ」という、穏やかな犬だった。オスだったかと思うが、忘れてしまった。大きくて、いつも、顔中を「べろーん」と舐められた記憶がある。体格に似合った、やたらに大きい犬小屋に、わたしは、しょっちゅう泊まり込みをした。本人には、「泊まる」意識は無かったが、子供の事とて、遊び疲れると、そのまま眠ってしまったものだった。親戚が、警察犬を専門に飼っていて、そこから来たものだったらしい。パロが座った写真が残っているが、わたしは、パロの肩に手をかけて、パロより小さいのを気にしてか、背伸びをして写っている。パロは、カメラの方を見ず、わたしの顔を覗き込んで、優しい目つきをしている。耳は、半折れになっていて、服従の態度を示している。この犬は、優しい性格が災いして、盗まれてしまった。二十年後、ある人から「もう時効でしょう?」と、当時の若い者が十数人で、飲み会の肴に、パロを食べてしまった、という話を聞いた。信じられなかった。どうして、一生騙しておいてくれなかったの?そんなことに、時効なんてあり?わたしは、小学校に上がる前の年、半年以上も、毎日毎日、探し回ったんだよ、声をからして。許せない、とかは、さすがに、もう思わなかったが、哀しみは、澱のように心にへばりついていて、わたしの根強い人間不信の根っこになっている。

 小学校の入学祝いに、(パロのこともあって・だと思うが)チンに似た子犬をもらった。ふかふかで、愛らしかった。「ちろ」と名付けて、学校から帰ると、いつも一緒に遊んだ。半年ばかりたったある日、となりの家の前で、大型トラックがバックしてきて、ちろを轢いてしまった。ひとたまりもなかった。泣いて泣いて、以来しばらくは、犬を飼わなかった。かわりに、三毛猫が居た。ネコは、飼っている、というより、「居た」という表現が、まさにピッタリの住人だった。でも、どこか犬っぽい、と後から知ったが、近所への買い物へは、一緒についてきたっけ。わたしは、ネコはみんなそういうものだ、って思っていたけど、普通は、外まではついてこないんだってね。でも、わたしのことを、子猫だ、と思っていたふしがあって、色々教わった。その話は、また後で。今は、犬の話だからね。

 例の、警察犬を飼っている親戚から、友達の所でコリーが産まれているよ、と聞いて、もう大人になっていたわたしは、車を飛ばして、となりの県まで見に行った。ちんちくりんの、ころころ太った子犬を見ていると、ついほほえんでいる自分に気づく。セーブルの雌をわけてもらって、「ローラ」と名付けた。ローラ、と言えば洋風だが、わたしの頭の中には、「狼等」という漢字が浮かんでいる。犬は、結局はオオカミに等しいのだ。野生を生かしてやりたい。(漢字で書いたから、って、「暴走族」ではありません、念のため。)
 ローラは、賢くて優しかった。コリー犬には、保護本能があるそうだ。まさしく、そのとおりだ、と、よく思った。シェパードとは、まるで違った。犬、って、一口に言うけど、見た目以上に、性格が違った。そして、それは、「種」によるものらしかった。いとこ、はとこ、同種の犬は、似通った性質を持っていた。そのことも、後で書きたい。うんと長くなりそうだから。パロと同じく、穏やかで優しい犬だったが、パロの持っていた優しさとは、少し違っていた。わたしが、もう、大人になっていたからなのかもしれないが。
 生後八ヶ月から、車で一時間ほどの所にある「警察犬訓練所」にご入学。いつも、足元にはべっていたローラが居なくなって、急に淋しくて寂しくてやりきれなくなって、思わず「新しい犬を飼っちゃおうか?」と、本気で考えちゃったほどだった。それほど、ローラは、わたしの一部になっていた。
 ただし、この時期、訓練は、ローラの精神にダメージを与えたようだった。シェパードは、訓練を喜ぶ犬種だが、コリーにシェパードと同じような訓練をほどこすことは、牧羊犬として、個の判断をするような性質に仕上がってきていたコリー種には、苦痛にしかならなかったようだ。結局の所、わたしは、ローラを早死にさせる事に加担したのだろう・・・と、今は思っている。訓練が、悪いことだ、と言っているのでは、決して、断じて、「無い」。ただ、画一的な訓練に向く犬種と、向かない犬種が、厳然と存在する、とは思っている。
 コリー種は、「寂しさのために死ぬ」のである。飼い主が、満タンの愛情を感じさせてやらないと、いけないのだ。ローラは、五歳で、永遠に、わたしの前から居なくなった。思えば、不埒な飼い主であった。

 その後、わたしは、犬のための心理学や、繁殖学、ありとあらゆる「犬関連」の書物を読みあさった。もともと好きだった生物学に、拍車がかかった感じだった。機動力になっているのは、「後悔」だった。自分の愛しいものへの、与えきれなかった愛情であった。家にあった医学書も、獣医学書と引き比べて読んだ(同居していた叔父は、外科医である)。生物学の本は、いとこに借りた(いとこは、旭川医大の教授である)。人間、真剣に学べば、かなりの成果があがるもの、と、あらためて知った。しかも、血縁的には、まっとうな「理系人間」らしい、ということも、知った。理屈が多くて、答えを正確に求めようとする。・・・ヤな性格だねぇ。
 それにしても、専門書、って、どうして、ああ高価なの?・・・ムカツク。

 今、わたしは、十五匹のネコに加えて、五匹の犬を飼っている。大型犬種、しかも「超」のつく。大型犬種は、身近に居ない方は不思議に思われるかもしれないが、どこか、ネコに通じる性格も、持ち合わせている。観察のために飼っている、と言ったら、多少語弊があろうが、わたしにとっては、犬も猫も、それぞれの心理学のよい素材である事には変わりない。小さい犬は苦手で、しかも、その理由が「足元をちょろちょろされると、踏んづけてしまう」という、まことにおっちょこちょいで、情けないものだ、という事を除けば、わたしは「動物愛護協会員」に近い存在だ、と、他人様に言われても、苦笑するくらいで、反論はしない程度には「生き物好き」だ。ある知り合いに言わせれば「わたし自身が、生き(ている)・モノ好き」だ・そうだが。そっちも、まぁ、否定はしない。
 でも、話がどんぱらぱっと飛びまくるのは、文系の女性の特徴だそうで、わたしは「どっちでも良いや。」という、かなりおおざっぱな性格も、祖父から受け継いでいる。

 犬の話に戻って、わたしは、犬のことを、かなり(自分的には)深く学んだおかげで、出会う人間を、犬の性格にたとえるクセがある。この人は「ボクサー」、彼は「柴犬」、あいつは「セントバーナード」、という具合に。で、いつも、大型犬種の性格を持ち合わせた人に「クラッ」とする。だから、わたしは、「大型犬フリーク」なのである。

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